ビグルモワ

すべて物語にしてしまいたい

ついったんか2017年12月

短歌の目がお休み中なのでちょっと遠ざかっているのだけど、今月は多めにぽろぽろしてたのでまとめておきますね。

 

職場でつかってるシステムがさも当然のごとく「平成32年」って表示して、人間がコンピュータに教えられることがまだあるんだなと思ってしまった。AIすげーっていうけれど、人間がつかってる以上は人間のが上。でいいのかな。それは現実が(今のところ)人間のものだからっていうことなのかな(コンピュータにはコンピュータの現実がある)。

 

仕事納めのあいさつがそこかしこできかれて、色々あったし色々いうけど、「お世話になりました」と言ってしまえば、ぜんぶが丸まってチャラになるような気がした。来年もよろしくお願いします。

 

職場の前で怪我した人の手当てをしたら、ちょっとして肉まんを持ってお礼をいいにやってきたので、鶴の恩返しっぽいなーとか思いながらご相伴にあずかる。レンジがこわれていてグリルで焼いたら温まりにむらがありました。

 

何回か書いてると思うけど、ヒナ氏の蒲団かぶって寝ているところはまさに「ねむり」の権化って感じでおもしろい。あと山に似てるからそれもおもしろい。

 

起きたときに昨晩とおなじかたちだったのでおもしろかった。

 

 以上、5首。

 

定型になったけど短歌ではなくない? って思う。わたしがいつもお湯をのんでいるんだけど、気づいたらブームが同居人にもうつっていた。お湯は手軽でいい。ずっとのんでると美味不美味がわかるようになってくる。あと単純にアラサーの胃腸にやさしい。お湯と水はまっすぐだ。

 

字数的に短歌と言い張れなくもないけどたぶんちがう。睡眠の前と後で心持ちが違ってきちゃうの、ありがたいようなくやしいような。断絶の大きさ。あと単純に日光が好きだということがわかってきた。

 

 

初句の最後が助詞になりがちなの気になるのでいろいろ読んでみようと思った。短歌のこと、まあまあ考えてて本もけっこう増えてきたしはまっているといっても過言ではない(はず)。けっきょく、写真も短歌もその人柄が出るし、わたしはわたしでしかなくてかなしくなるようなことも多いのだけど、それがわかってきたからそれなりにやっていきようもあると思っている。2018年はもーちょい短歌づいていきたいです。まる!

8月の短歌––おぎやはぎは荻でも萩でもない

soulkitchen.hatenablog.com

 

公開するまではああだこうだ考えるのんだけど、その後ああだこうだ書こうって思うまでの腰がめちゃめちゃ重い。ふだんのブログとかもそうだけど、書いたはしから忘れていって、さらに気が咎めて振り返れなくなっちゃうのだった。とりあえずどんなことを考えて31文字にしたか書いていく。

 

題詠 5首

1. 流

 荻萩もわからぬままに朔太郎流行ともに秋の野の群れ

 

荻と萩ってわからんよね。漢字があればどう読むか考えるし、ひらがながあればどうかこうか考えるし、と考えてみたら漢字がなければこの混同はないんじゃないですかね。調べてみたら朔太郎も流行も萩原のよぉです。

 

るるりっと汗の流れて川となりうちの扇風機雨音のする

7月の短歌––はからずも、夏 - ビグルモワ

ベランダのこの世の春の真っ青の受け皿のなく川の流るる

4月の短歌––季節はずるい - ビグルモワ

「流(れ)」ってお題にされてなくても詠んじゃっていて、わたしにとって「流」は川なんだなーというのを思った。 やっぱり「川の流れ」で詠みかけていたのを引き戻す。題に対してここから引っ張ってくるのかっていうのをやりたかったですね。

 


2. 囃

 覚醒の手前で森の雨を聴き 子らの音いつか蛙囃子に

 

雨が降っているのかと思えば、それは樹々が蓄えていた昨晩の雨で、風が葉を撫でていく音のやさしいこと、そしてまた雨の残り、、という朝の気温の低くまどろみの中に子どもたちの声が響き(朝の5時ですけど……)、山の中で奇妙にこだましてあちらからこちらからの音声が夢気分をさらに増幅させるのだった。げらげらしながら蛙になってしまえよ。

 


3. フラット

 フラットを与えられたる特別を悲劇みたいに謳いかなかな

 

靴の踵がフラットに、みたいなのから急角度で曲がって別の方向にいったやつ。シャープもフラットも(ナチュラルも♪)半音の黒い鍵盤がくわわると音楽は急に悲劇をおびる。夕方になるとカナカナが鳴きだして、その力を存分に発揮しているみたい。でもちょっと自分(蝉)に酔っているのでは? なはんて。

 


4. 西瓜

 種とばす競争なんぞ催され、おそらく西瓜の生存戦略

 

西瓜の種の飛ばしやすさってなんなんでしょうね。飛ばすことをアフォーダンスしてきている。つまり、わたしたちは西瓜の種を飛ばしているのではない。西瓜に種を飛散させられているのだ! なはんて。

 


5. こめかみ

 こめかみはガムかみだっていいわけで へりくつをいうきみの指かむ

 

なんか、あーハイハイって感じですね。自分でつくっといて、あーハイハイって。

 

 

テーマ詠


今月のテーマ「怪談短歌」

 「また今度」この次のもうない由を夢の吾は知るドライアイスの白

 

怖いものたくさん考えてみたけれど、うけねらいになっちゃいそうでそれが嫌でこんな感じに。「また来年」の話をしたけど、来年はもうないってことをわたし達は知っていたから、大人たちの歯切れの悪さを感じた今夏。この件にかぎらず、思い出の中には達成されない「またね」もたくさんあり、それは後に遡って発見される。デジャヴのような夢の中で「またね」を繰り返すのはつらかった。というような。

 

 

 いつもながらラスト二日くらいでががっとつくっているというのがあり、それががいいか悪いかは諸説あるだろうけど、個人的にはもうちょっと時間をかけたまえよという思いがあり、でもぎりぎりにならないとやらないんだよなぁという意味で、これら以上のものはつくれないのでせう。いやいやそこをなんとかするのが努力というものでしょう等。

今回のは八月にあったこと、秋めいてきたことなんか、やっぱりこの月の自分の感じを詰めて提出していて、日記みたいな感じがあるのだった。どこか自分の経験からひねり出している。

つくっているとき、はたまた推敲しているときはああなんて素晴らしいんだろうという気持ちになっているのだけど、一度出してみると、それから他の人のを読むとなんだかがっかりしてしまう。われに返るというか。そんな繰り返しなんである。

歌のありかたみたいなものについて言及すれば、ストレートな歌は気恥ずかしい。場合によっては稚拙にも感じられる。自然が自然であるような、ただただ立っている歌にあこがれますね。難しいですね。だもんでやっぱりひねってしまう。ひっかけてみたり、抜け道をさがしたり。っていう自分のやり方にもだんだん辟易してきてしまって、じゃあどうするかという感じ。で。上にあがる階段をさがすためにずっと一階をさまよっている感じがあることです。

7月の短歌––はからずも、夏

soulkitchen.hatenablog.com

 

歌をつくってたときの自分と現在の自分が完全に切り離されていてなにも言えなそうなのだけれどがんばって思い出して書いてみよう。とて。

 

題詠 5首

 

1. 透

 透明の履歴書もって透明のぼくに似合う仕事ありますか

 

★やっぱり幽霊のことを考えて、はじめは趣味特技恨み死因とか考えてたのだけど、文字数多すぎるので方向を変えたのであった(第一暗すぎる)。「透明のぼく」って言いはじめるとなんか世相を斬る(っぽさ)が出ますね。

 


2. ホイップ

 かき氷「入道雲がはつ恋」とホイップクリームの横恋慕

 

★「かき氷が入道雲に恋をして、ホイップクリームが嫉妬」みたいな大意らしいんだけど、ただただ単語を並べただけになってしまっている。これにかぎったことではないんだけど。夏の雲と泡立てたホイップクリームはよく似ている。かき氷も形状は似ている。この場合のかき氷はおそらくイチゴ味だよねー。

 


3. 果

 どこまでもひろがる夏にくさび打つ果てぬすいか割り、夏休み

 

★夏休みって八月いっぱい、はたまた大学生だと九月いっぱいまでお休みで、はじめはその果てのなさにくらくらするよねー。夏の大風呂敷広げちゃったぜみたいな感じ。その隅っこですいか割りをするのでしょ。森見登美彦のようなごちゃごちゃ感が頭の隅にはあったような。

 


4. ペンギン

 温暖化防止対策委員会 首折れペンギンのごと「止まれ」

 

★家の近くの「止まれ」は道路のカーブにそって見事に折れていてペンギンみたいなんだよなーというの。それだけなの。

 


5. 短夜

 短夜に植物たちは飽きもせでぐんぐんのびる生きるのが好き

 

★植物は生きるのが大好きだから、 ってだれかの(知久くんだと思うんだけどうまく検索できない)歌であって、なんかそのままの歌。朝になって水をやるかとベランダを見ると植物の緑が前日とは明らかに違うきらきら具合でこちらを見ているの、はっとする。ただただ大きくなろうとするのは生きるのが好きなんだなって感じがする。

 


テーマ詠


今月のテーマ「あつい」

 るるりっと汗の流れて川となりうちの扇風機雨音のする

 

★エアコンはつけたり消したりするものの扇風機はほぼずっとついていて劣悪な労働環境におかれているとか思うのだけど、今日もけなげに首をふり続けている(えらい)。そのせいか、もともと高価いものではないのもあって、羽根のまわる連続音、ふと耳を欹てたときなんぞに雨が降っていると勘違いさせられる。暑いときは雨が降ればいいのにと思ってたりするから窓をあけてみてがっかりする。「るるりっ」て昔読んだ小説で滴った血が丸くふくらむ様子につかわれていた(それは「るりっ」だった気がするけど)のを書いておきます。ね。

 

なんて書いてみると、だいたいいろんなところからのつなぎ合わせでできているんだなぁと思うのでした。いつもぎりぎりだからかな。自分と書いたものとの適切な距離感ってあんまりよくわかっていない節があり、だれかの言葉を借りた方が気楽だったりするのだよねぇ。なんにしてもインプットもアウトプットも足りないと感じるのだった。作歌とうじの(おそらく)切実な気持ち、なくなってしまっていてかなしい。