8月の短歌––おぎやはぎは荻でも萩でもない
公開するまではああだこうだ考えるのんだけど、その後ああだこうだ書こうって思うまでの腰がめちゃめちゃ重い。ふだんのブログとかもそうだけど、書いたはしから忘れていって、さらに気が咎めて振り返れなくなっちゃうのだった。とりあえずどんなことを考えて31文字にしたか書いていく。
題詠 5首
1. 流
荻萩もわからぬままに朔太郎流行ともに秋の野の群れ
荻と萩ってわからんよね。漢字があればどう読むか考えるし、ひらがながあればどうかこうか考えるし、と考えてみたら漢字がなければこの混同はないんじゃないですかね。調べてみたら朔太郎も流行も萩原のよぉです。
るるりっと汗の流れて川となりうちの扇風機雨音のする
7月の短歌––はからずも、夏 - ビグルモワ
ベランダのこの世の春の真っ青の受け皿のなく川の流るる
4月の短歌––季節はずるい - ビグルモワ
「流(れ)」ってお題にされてなくても詠んじゃっていて、わたしにとって「流」は川なんだなーというのを思った。 やっぱり「川の流れ」で詠みかけていたのを引き戻す。題に対してここから引っ張ってくるのかっていうのをやりたかったですね。
2. 囃
覚醒の手前で森の雨を聴き 子らの音いつか蛙囃子に
雨が降っているのかと思えば、それは樹々が蓄えていた昨晩の雨で、風が葉を撫でていく音のやさしいこと、そしてまた雨の残り、、という朝の気温の低くまどろみの中に子どもたちの声が響き(朝の5時ですけど……)、山の中で奇妙にこだましてあちらからこちらからの音声が夢気分をさらに増幅させるのだった。げらげらしながら蛙になってしまえよ。
3. フラット
フラットを与えられたる特別を悲劇みたいに謳いかなかな
靴の踵がフラットに、みたいなのから急角度で曲がって別の方向にいったやつ。シャープもフラットも(ナチュラルも♪)半音の黒い鍵盤がくわわると音楽は急に悲劇をおびる。夕方になるとカナカナが鳴きだして、その力を存分に発揮しているみたい。でもちょっと自分(蝉)に酔っているのでは? なはんて。
4. 西瓜
種とばす競争なんぞ催され、おそらく西瓜の生存戦略
西瓜の種の飛ばしやすさってなんなんでしょうね。飛ばすことをアフォーダンスしてきている。つまり、わたしたちは西瓜の種を飛ばしているのではない。西瓜に種を飛散させられているのだ! なはんて。
5. こめかみ
こめかみはガムかみだっていいわけで へりくつをいうきみの指かむ
なんか、あーハイハイって感じですね。自分でつくっといて、あーハイハイって。
テーマ詠
今月のテーマ「怪談短歌」
「また今度」この次のもうない由を夢の吾は知るドライアイスの白
怖いものたくさん考えてみたけれど、うけねらいになっちゃいそうでそれが嫌でこんな感じに。「また来年」の話をしたけど、来年はもうないってことをわたし達は知っていたから、大人たちの歯切れの悪さを感じた今夏。この件にかぎらず、思い出の中には達成されない「またね」もたくさんあり、それは後に遡って発見される。デジャヴのような夢の中で「またね」を繰り返すのはつらかった。というような。
いつもながらラスト二日くらいでががっとつくっているというのがあり、それががいいか悪いかは諸説あるだろうけど、個人的にはもうちょっと時間をかけたまえよという思いがあり、でもぎりぎりにならないとやらないんだよなぁという意味で、これら以上のものはつくれないのでせう。いやいやそこをなんとかするのが努力というものでしょう等。
今回のは八月にあったこと、秋めいてきたことなんか、やっぱりこの月の自分の感じを詰めて提出していて、日記みたいな感じがあるのだった。どこか自分の経験からひねり出している。
つくっているとき、はたまた推敲しているときはああなんて素晴らしいんだろうという気持ちになっているのだけど、一度出してみると、それから他の人のを読むとなんだかがっかりしてしまう。われに返るというか。そんな繰り返しなんである。
歌のありかたみたいなものについて言及すれば、ストレートな歌は気恥ずかしい。場合によっては稚拙にも感じられる。自然が自然であるような、ただただ立っている歌にあこがれますね。難しいですね。だもんでやっぱりひねってしまう。ひっかけてみたり、抜け道をさがしたり。っていう自分のやり方にもだんだん辟易してきてしまって、じゃあどうするかという感じ。で。上にあがる階段をさがすためにずっと一階をさまよっている感じがあることです。