ビグルモワ

すべて物語にしてしまいたい

例の本を読んだ

 

これね。

 

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

 

 

入手直後くらいに読んであったのだけど、なかなか記事にできず。感想はほとんど変わっていないのですが、うーん、面白いしいい話なんだけど、そんなに皆皆様が絶賛するほどなのかよくわからないというのが正直なところで、わたしの読解力とか共感力が低いのだろうかとか思ってしまうほどで、それで少し冷めてしまってる。

この感想の記事もいくつか読んで、それで前述の疎外感があるのだけれど、でもそのエントリのいくつかは感動しましたの熱と自分の経験と重ねての見識がはっきりとあざやかに描写されていて、(わたしにとって)この本はぼんやりとしているのと反対に、その人たちの輪郭がはっきりし、色が濃くなったような不思議な感じがあった。

文章は綺麗で、自然の描写なんかが、たぶんわたしが田舎育ちだからというのもあるんだろうけど、何もなく、辛うじてある樹々やなんかもその枝葉の隙間なんかからさらに何もなさを増幅させる寂しい感じがとてもよかった。あとなんだかインターネット発だなぁという感じがする部分もあった。

そもそも筆者のブログを読んでいて、twitter等も拝見しているので、その奇矯な夫がはじめからおかしかったわけではなく、まじめな好青年だということが知れて納得したりした。そのおかしなところに惹かれたのかなと思っていたのは違っていた。というように、事実においては筆者のブログやtwitterの副教材のようなあつかいにわたしの中ではなってしまった。

 

読みながら、なんで「自伝的小説」、つまり(いちおうは)ノンフィクションと銘打っちゃったんだろうと思って、わたしはこれは「フィクション」でいいと思ったのだ。タイトルにもなっているように、夫とは性交渉が持てない(それは恋人時代からずっとだ)。そして読み進めると、夫以外とはできたし、夫もまた他でできているようだということがわかる。その理由はわからない、とにかくできない(入らない)のだ。不思議だ。でも多分そこに意味をもたせて読み解いて(読み解かせて)ほしかったのだ。

また、これを読んで「まさかそんなことがあるなんて」と思う人もいるだろうし、それと同じように「わかる」という人もいるんだろうなと思った。わたしはどちらかといえば後者で「入らない」関係もいいのではないか、むしろその方がいいとか思ってしまう(たぶんこれは個人の体験に深く左右されるのだろうけど)。しかし、作中のふたりは「入りたい」のだ(タイトルを尊重して「入れたい」とは書かない)。「入りたいのに入らない」と「入らなくていいなぁ」は全然違うものだから自分の率直な感想をぶつけるのは躊躇われた。

それと同時にたぶんこういう人たちはほかにもいるんだろうなと想像した。つまり、「入りたいのに入らない」人、または「入らなくていい」人が。と思っていたらやはりそうだったらしく、そんな感想が筆者のtwitter等でRTされてきたりする。そんな今まで気づかれなかった派閥があるならば、恋愛関係夫婦関係に「入る/入らない」という枠組みが追加されるきっかけになるのかもしれないなぁ。

「入らない」けど恋人です夫婦です問題ありません的な関係、わたしはアリだと思っている。究極、友人どうしで結婚したっていいと思ったりもする。「好き」にも色々あるというとありきたりな感じだけど、LGBTにかぎらず、異性愛だってひとつじゃないって、定義がゆるく自由になったら楽だなぁと思う。そういう意味で意義深い点はあるのかも。

 

という感じでこのエントリ内で時間の経過があって、いちおうの結論をつけられた感じにはなりましたが、発売直後は勝手にもやもやしていた感じです。とはいえ重版かかったり社会現象、なのかなー。そういう予感がなかったらこの結論にはできなかったろうしうーん。そうそう、このエントリ、わたしの輪郭は少しははっきりしたでしょうか。