ビグルモワ

すべて物語にしてしまいたい

それは引用ではない

昨日の晩にブログの記事を書いていて、それはいつもの方のブログなのだが、そこで、その朝に読んだもののことを適当な引用とともに書いたのだけど、あとから考えてみると、そういうふにゃふにゃしたものを「引用」と呼ぶのはいくらなんでも雑すぎるのでないかと思えてきて、ではやり直し、というふうに、あらためて書いて置くこととした。

soulkitchen.hatenablog.com

 

引用したらそこで満足してしまいそうだ。わたしはそこに書いてあったものに対してフンフンと読んだだけで、返答となるような論考なぞはもたなかったのだ。もうこれは、紹介するぞとしかいいようのない気持ちである。紹介するぞ、もしくはのちの自分のための紹介するぞ、である。

ブックガイド的特集の保坂和志へのインタヴュー記事である。

保坂 (前略)ぼくにとってはまず世界とか人生とかを外側から見る視点をいかに自分のなかから完全になくしていくかということだから。世界というのは外から見えない、自分の人生とかも外から見えないわけでね。外から見えるというその救いみたいな出口みたいなものは、(中略)知的なひとたちってそういった俯瞰的思考ができるようになっているんだよね。でもそれによってある優越感的なものをえて世界に翻弄されにくいメンタリティになっていく、知的になるということは知らず知らずにそういうことをする訓練なんだよ。その根は深くて、そういうことを教えることで官僚とかをつくりだし、社会の外側に置き優越感をつくるシステムがこの社会のなかでできているのかもしれないんだよ。(中略)それによってほんとうに自分の人生が豊かになるかといえばちがうと思うんだよ。それで人生を歩めるか、人生をもっとも充実させられるかといえば、外に出てしまうやり方はダメなんだよ。人生や世界を外から見ない訓練を徹底して積んでいかないと充実したものにならないんだよ。

「世界の外に立たない思考 ベケットカフカ小島信夫――保坂和志インタヴュー」(松村正人 『読書夜話』) 略部分、引用者による

 

 外側に立つ思考、をさらに外側に立って、でも違うんじゃない? って言うのがおもしろい。外側に立つ思考を経ないでただただ生きる人生と、外側に立つ思考をしかけて、いやそうじゃない、外側には立たないぞと決心して内側で生きる人生があるとして、見かけは同じでもその内面の質は異なったりするのだろうか。いやいや、こう考えることこそが、「知的なひと」が「優越感」をもつための仕掛けなんだろうか。この自己言及的なメタっぽい視点おもしろい、というのは今引用してみて思ったことだけど。

ただもう単純に、それはそうよなというようにも思って、人生をまっとうに生きる、ということは自分を外側に立たせてはいけないということを考えていたので。「ダメなんだよ」とまで言い切られるのは予想外ではあったけど。

それで、ちょっと前に考えていた「小説」と「物語」のちがい、というのがあって、外側に立ってるのが「物語」で、内側の個人が(を)書くのが「小説」というようになんだか感じているのだった。

それで、インタヴューはこのあとに身体性の話になって、保坂和志という人は、小説とか科学のことが好きすぎる論理的な人と思っていたので、身体のことを言い出したのがすこし意外であった。でも、小島信夫との往復書簡本でのやりとりを読んでいて、そういうのに憧れているのかなぁとか、その考える人生の中から、これだ! と見つけて希求して突き進んでいるのかなぁ、とか。わたしはものすごく、保坂和志のことが気になったのだった。

インタヴューは最後にこう締められる。

保坂 (前略)むしろ自分がいまとっている手段、やり方が世界の外に立つという自覚がちょっとでも掠めたら自分のなかではつまらないから止めちゃうんだよ。それは外に立てるほどの弱い世界像だともいえるわけでね。外に立てないような世界像をつくらないと作者自身も書き手自身も外に立てない文章のテンポ感や力動的なものをつくっていかないとダメだと思うんだよ。

(前掲書) 略部分、引用者による

 

逆にねー。外に立てちゃう世界はねー、アレだよねー。(地獄のミサワ風)

という冗談はおいておいてね、実際の世界はともかく、小説などは書き手がいるのだから、そういう強い世界を構築するのも手ではある、と思った。

(作者自身も書き手自身も、ってミスじゃないよね? とも思っている)

 

 雑誌はこちら。

 (ドミューンの関係の本なんですね)