ビグルモワ

すべて物語にしてしまいたい

知らないふりしてマシンガン(東直子『薬屋のタバサ』読みました)

 短歌界のうれっこの東直子さんの小説(たぶん小説なんだろう)を読んだ。わたしは鑑賞にあたっては印象論を採用しているので、まず読中の感想を述べるね。

 真ん中くらいまでは小説なのか? と思っていた。文章が下手すぎる、と思っていた。もう少し厳密にいうと、文章はおかしくない。間違っていない。正しい。しかし、小説の文章としてはよろしくないのだ。こなれていない。書かなくてもいいことまで書いてある。その直前までに読んでいた小説はそこのところが完璧だったので(つまり、とても"小説"だったので)目についてしまったところもあるだろう。

 内容自体は好みの感じだった。でも文章が気になると集中できないなとか思っていたのだけど、後半になるにつれて、どんどんおかしくなってきた。あらすじ自体は特段変わったものはないと思う。先も述べたけど、好みでさえある。どうオチをつけるんだろう。ハッピーエンドなのか(カップル成立がハッピーかはわからないけど)、新たな旅立ちパターンなのか、みたいなことを考えながら、しかし読んでいる感じがまったくそぐわない。一文目から物語は浮遊し安定せず不穏な匂いを漂わせている。直截な感情の交換もなされない、あるのは暗示のような記号のような物語。進んでいる気もしない、戻っている気すらする。でも主人公は旅の途中だというし、町に対して自分はよそものだと思っている、過去は忘れかけている、でもここにずっといるつもりもない。時間も目的もない。しかし人は死んだり、うまれたりする。人があらわれたり消えたり夢の中だったりする。そのへんについては、もう本書を読んでくれと思うのだけど、そんな物語がラストにぎゅるぎゅるとアクセルべた踏み加速して、終わる。のが脳内麻薬出ているのではという気持ちがした。楽しかった。あと、終わりは用意されていなかった。想像しているような終わりはなかった。

 なんなんだこれはと思いながら読み終わって数日たって、「あ、ルールがないんだ」と思った。書いてるものと読んでるものの間には暗黙の了解がある。秘密がある。ルールがある。この秘密の協定をないものにしちゃったのが本書なんだと思った(意識的にそうしているのかはわからないけど)。それはつまり、物語は「なにかしら教訓を得られる」とか「ハッピーにしろバッドにしろ結末がある」みたいな枠の話で、これは明文化されないものの文章をやりとりする人々の間でのお約束なんだけど、その枠をとっぱらっちゃったんだと思う。筆者の独りよがりともいえるし、読者にすべてをゆだねたともいえる。めちゃめちゃいい本じゃん、と思った。最前に述べた(小説の)文章のうまくなさも、暗黙の了解から生み出されたものなんだから、本書の文章はそこに乗ってなくていいのだと今は思っている。

 あと、細かいけど、登場人物たちが自分の名前の表記を説明してくれるの、よかったな。これこれこういう漢字です、って言ってから、それまで形容で仮名されてた人物を名前で呼べるようになるの、現実と同じで安心する。

 そのあと読みさしの短歌の本(同じ東直子さん!)に戻って、 小説のこと、さらに納得したりしている。小説家の小説、じゃなくて他に専門のある人の小説が小説を変えていく、って高橋源一郎も言っていた気がして、なんだかここは小説の裂けめな気がしておるところです。テロルテロル。

 

薬屋のタバサ (新潮文庫)

薬屋のタバサ (新潮文庫)

 

 

 

短歌の不思議

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