ビグルモワ

すべて物語にしてしまいたい

5月の短歌––切れば血の出る物語を

soulkitchen.hatenablog.com

 

毎月恒例の短歌の企画なのだけど、5月は無理ねと早々に諦めていて、でも、つくりたいなと思いはじめた31日の夜に、食事と入浴をすませて時間をつくる。頭の中で考えていたとはいえ一時間弱でできてしまった。まあしかしこれを短歌と呼んでいいのかはちょと疑問。このときのわたしにはこれしかなかった、できなかったのだけど、ウーム短歌とは。とうなってしまうのだった。とにかく散逸しているし、「型? それがなんじゃい」というような。毎度毎度、自分の心理テストみたいになっている。いちおう解説してみるけど、なんかなーという気持ち。でもこれしかないという気持ちでもある。

 

題詠 5首

 

1. 青葉

 青葉ごしたださんぢゅっぷんの昼間、白線の上を気をつけて歩く

 

★ちゃんと帰れた日はスーパーマーケットに寄って、休憩コーナーに座ってみる。家にいるといっさいノートをひらかないので苦肉の策なんだけど、かよってみるといつもいる人、勉強してる人や待ち合わせの人や、おそらく夫婦で帳簿をつけてる人たちもいる(買い物帰りにレシート整理してしまうのが楽なんだろうね)。子ども、おさなき子どもは高周波を発している、等々を発見している。それで最近日が長くなってきているから、座りはじめには明るい夕方、がみるみる暮れていくのをながめながら、仕事から解放されたわたしには三十分の昼間しかないのであった、それもすぐ暮れていく。その時間を注意深くいる趣で。

 


2. くつ(靴、屈、窟など他の読みかたも可)

 たとえばモアイ 虹色の靴履きながら「くつは口ほどにもの言う、くつくつ」

 

★無口なじいさん、が知人の知人でいて、無口なのだけど、リハビリだかの靴を買うことになり(介護用品である)、カタログを見せて選んでもらったところ、めちゃめちゃ派手な色を選んで意外だったという話があり、しゃべれば陽気なのかなとか思ったのであった。でも「無口なじいさん派手な靴履いて」では説明的に過ぎるから、無口そうなものを考える。動物とか偉人とか、それでモアイ像の顔を思い出して、採用した。「くつくつ」には青い人の歌からの影響があったことを付記しておく。くつくつ。

 


3. カーネーション

 母の母の母を私は知らぬ知らぬ街でカーネーションに敬礼 

 

カーネーションから素直に「母」にした。母の母までは知っているけどその母をわたしは知らない。話によく聞く曾祖母は祖父の母だったっぽいし(母の父の母)、母の母の母、謎だ。「知らぬ」を二度重ねて、それでもなにかはつながっているのだから、遠い母たちに、はたまた誰かの母親に、すべてに敬礼である。

 

 

4. 衣

 やわはだを隠せ衣は山みどり ヤギの毛の逆立ったらアルパカ

 

★衣更え、が一番に浮かんで、これだって衣更えを詠っている(つもり)のだよ。持統天皇の歌が念頭にあり、山の衣更え、はげ山に緑を着てもらい、ヤギの草刈り、でまたはげちゃうな、、イメージが確定していなくて歌いきれてないですね

 


5. 夕なぎ

 夕なぎ、ホットケーキのため息をきく さふいへば、男女

 

★昔行った港町の夕方を思い浮かべ、しずかな時間であった。むかし読んだ小説の影響とかで船といえば帆船で、ふうと吐息のような直線的な風を帆が受けるのを想像する。小さなため息をホットケーキが吐く、台所で、それはその夕方とは遠いようで、きっとなにか関係している。そういえば男女って思い出すのだった。わたしたちは。

 

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テーマ詠
テーマ「運動会」

 うすぐらきふくろの中の目配せもうまれてしまえばみんなおんなじ

 

★運動会で思い出すのは就学前の園でのことが強くて、それはなにかしら趣向がこらしてあった。段ボールを中に入って転がすキャタピラ走とか、袋をかぶった親を園児があてるとか、そういうの。田舎だったからか地区運動会というのもあって、それは地域の老若男女が揃い出て、お玉にスプーンをのっけて速さを競うとか、自転車で遅さを競うとか、まじの人生リレー(十代、二十代、三十代……みたいなの)とかで、学校の運動会ってあんまり記憶にない。あれって走るだけじゃない? 話を戻すと、なんか袋の中に顔をつっこんでなにがしか選んで走るみたいな競技があったなぁというのと、日常とかけ離れたことをしてみると連帯感がうまれるよねというの。それとうまれる前の競争みたいなことを考えて、ゴールしたっていいけれど、そこからがスタートだよなぁみたいな気持ち。

 

 

短歌の感想というか幕内のエントリを書くのは夜と決めていて、こんな長文は正気じゃ書けないと思っているとかともかくしっかり時間がとれるとわかっているときに書くことにしている。

それで手の内をあらわしてみたところで、「短歌つくれてなくない」と気づくのだけどそれはひとつの文意にしきれていないということで、自分のなかでほやほやしている物語をなんとなく書いてみたということ、さらに57577にあんまりなっていないなぁと思ったので文字数をかぞえてみる。

 

 

1.青葉ごしたださんぢゅっぷんの昼間、白線の上を気をつけて歩く(58488=32)

 

2.たとえばモアイ 虹色の靴履きながら「くつは口ほどにもの言う、くつくつ」(77588=35)

 

3.母の母の母を私は知らぬ知らぬ街でカーネーションに敬礼 (67677=33)

 

4.やわはだを隠せ衣は山みどり ヤギの毛の逆立ったらアルパカ(57578=32)

 

5.夕なぎ、ホットケーキのため息をきく さふいへば、男女(57754=28)

 

 

やはり定型にはなっておらず、ほら見ろーってな感じである。でもこれはもうこのかたちでしかないとそのときのわたしが思ったわけで、つくりながら「これは詩だな」と思っていたのであった。短詩。もしかしたら破調。破調ってなんなんでしょう、定型でなければ破調? それとも破調なりにルールがあるんだろうか。

大きな"物語"があり、その一方で小さな物語があり、できたら(短歌では)後者をあつかいたいと思っていて、「あるある」を題材にするんではなく、自分の体験を「あるある」と思ってもらえるようにするのがいいんではないかというのが現在の仮説。大きな物語ってだってそりゃ"正しい"んだものね。口ロロがいってた「切れば血の出る物語」を模索したいのだった。

さてそれにはワーディングやら修辞やらがかかわってきてそれこそがセンスの良し悪しな気もするけれど。テクニックでカヴァーできるとしたらやはりそれは習熟。しかしそれを受けて、次はどうしてやろうとかここをこうしたらよくなるぜとかとくに思うこともなく無策なわたし、とりあえず向上心は土にうめてまた懲りずに短歌(もしくは詩)をつくろうと思うのでした。

ここ(詩作または詠歌)において、「詩をつくるぞ」または「歌を詠むぞ」という意識は作品に影響をあたえるのですかね。誰ぞのいった「小説を書くと思って書くのが小説」という定義をそのまま持ってきたわけですが。それとはまた別の次元で、読み手が「これは小説と思ったら小説」というのもある気もするし、なんだかややこしい荒野に足を踏み入れてしまった感じ。とりあえず、お題にのっとってなにかしらつくってみる、という単純な営為に専念しよおと思います、マル。