1月の短歌––迷いがみえるみえている
題詠 5首
1. 編
愛す子も愛さない子も等しくはだれぞ遺伝子編まれた先の
★編み物するようになってから、人の着てるニットとかめっちゃ気になってよく見ちゃうんですが(糸とか編み方とか色とか)、そして文章の一文字一文字をつないでいく感じは編んでいくのととても似ていて、あるときふっと、この目の前の人もいろんな人の関係(DNA)の編まれた先なんだなぁと思って。中島みゆきの「糸」、編みながらうたっちゃうんですけど、まさにだなーと思ってやべーやべーつって(語彙力がゼロに近づいて)。
2. かがみ(鏡、鑑も可)
かの人ののち水滴のしぶきたる鏡の向こうの顔に色ぬる
★なんでこんなに鏡が濡れているんだろうと思いながら化粧をするのは忙しい朝。
3. もち
おもちさえあればなんにもいらないの 夏はおそばがあればなんにも
★おもちっておいしいよねという気持ちしかわいてこなかったのでした……。極端な思考をする癖があって、これさえあればなんにもいらないっていうのが百個くらいある気がする。なんなの。
4. 立
おひとりで立ってるあなたは美しく、けれどみなにもさあれと云えず
★この写真めっちゃよくないですか?!?!?!?! やべーつって(語彙力が)。
5. 草
干し草は枯れた草とは違うもの? 牛のおちちをのんでる
★そういえば2017年は食べ物を干してみたいんですけど、干すと栄養価が上がるってどういう仕組みなんだろう。ひじきを乾燥させて流通した先で結局もどして食べてるの意味わからんっていつも思ってる。過去からのメッセージ感。うーん、保存食。田舎育ちなので、実家の近くにはたまに牛舎があって、なんとも言えない匂いがして、近くをとおるときは息をとめて早歩きして、でもたまに風向きで牛の匂いがしてきて、近くに立ってたあの謎の背の高い建造物はサイロなのかなとか今になって思う。あの牛たちと、けっきょく牛乳を買ってきて飲んでるわたしの距離ってめっちゃあるよね。
テーマ詠
テーマ「初」
なんもかもきみにとられてしまっててこの先どうして歩いてゆける
★「初めて」が終わってしまったら、もうなんもかもわからなくなって、とらわれてしまう。良くも悪くも初めてはトクベツ。
なんもかも夢に出てきたくりかえしすべてがはじめてすべてがおわり
★これはわたしの思考の癖なんだけど、考えをつきつめた結果、「初」とは全部がはじめて!! ということになってしまって、じゃあ「全部」の歌を詠むの?!?!?! ってなってしまった。それはともかく、既視感がめちゃくちゃあって、初めてのことでも、「あ、これどこかであったな」って思ってしまうことも多くて、するとやっぱり初めてってなんだろう。夢の体験は数えていいのかな。
赤いものあげたかわりに色うせてずんぐり十字架世界を嗤う
★16歳になったとき、「献血ができる!」って意気込んで献血したんだけど、けっきょく貧血で倒れてそれからもう献血はしていない。
短歌をつくるたび、それと一応こうして自分で解説してるとき、わたしは結局文章の人なんではないかと思ってしまう。がやがやうるさい。
この月の短歌はぼやっとしてしまったと思うんだけど、それはわたしの話であって、受け取る人には関係がない。ぼやっとしてると受け取ってもらえるかもしれないけど、その人の中ではそれで終わりだろうし、それでも(ぼやっとしながらも)鮮烈に覚えてもらえるとしたら、受け取った人のなにかに結び付いたんだろうなぁと思う。受け取った人のなにか、わたしにはわからないからそれは非対称のようで対称な気もする。
それは文章も同じなんだけど、短歌は31文字という決まりがあるから、必然言葉を削ったり状況を整理したり修辞法を駆使してみたり、場合によってはわかりやすいような比喩でもって全然違うことにしてみたり。そう考えると、素直なストレートな短歌がある一方で、(もしくはストレートでありながら)ひねくれた短歌もあるんだろうと想像する。それはともかくこちら側のなんやかやを31文字に詰め込んで、あちら側ではそれを解凍する。zipファイルみたいな面もある。こちら側とあちら側でまったく同じ姿になることを想定してしまうけど、たぶんそれは本当に本当にまれだし、いやむしろあちら側では変な姿になっていてくれという気もする(これはわたしがひねくれているから?)。
わたしが今回反省するぞと思うのは、むこう側で解凍されたときにぐずぐずでむにゃむにゃなんじゃないかなということ、もしくはやっぱりあまりにもそのままなんじゃないかなということ、な気がする。zipのたとえでいくなら、圧縮方法があんまり気にいっていない。圧縮するまでにもなっていない。と個人的には思う。ちゃんと時間がとれていないということもあるんだろうけど、それにしても。自分で詠んで自分で読むのだったら笑い話で済むかもしれないけど。でもこの不満足はわたし自身の現況の不満足からきてるものもあるのかもしれない。今回のお題で半年後につくってみたらまた違うものができるような気がする。それはわたしの生活に根差しているという意味で。何度つくっても同じ歌ができるのがいいという意味ではないのだけど。というような、短歌をつくってみるわたしと生活体としてのわたしの齟齬があって(いやむしろ状況的にないのか?)、もにゃもにゃしたままつくったので感想がもにゃもにゃしているということなのかもしれない。
テーマ詠が「初」なの、広すぎて広すぎて迷子になってしまって困った。焦点さだめきれない癖がやっぱりあって、広くとってしまいそうになる。具体的な「初」とはなにか。なにか。なにか……。次回(今月)は「夢」なので、これも広くない……? 簡単なことを難しく考えすぎなのかもしれない。少し前の休みの日にテレビをみていたら、NHKで短歌大会みたいなのをやっていて、一年かけて短歌を募集して表彰してでは次のお題はこれですみたいな流れで、その今年のお題は「山」で、山のことを詠んでもいいし、ぴんと来ない人は身近にいる山田さんのことでも山本さんのことでもいいですとアナウンスされていて、ウッ卑近! とか思ってしまい、それは反則なのではと思ってしまったりする自分がまさに矮小、NHKがいいっていってるんだからよくて、卑近なことをガンガン詠んでいきたいような気もする。めちゃめちゃな圧縮から気に入るものができるのかもしれない。というような思考。しかしこんなことうだうだ書いていて、わたしってやっぱり「文章の人」じゃない?