読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ビグルモワ

すべて物語にしてしまいたい

 生ぬるい日だった。冬からのトンネルをぽかりと抜けて、地上に顔を出したみたいな陽気だった。天気予報が雨は降るような降らないような曖昧なことを伝えたが、裏腹に雲からは日射しが覗き込んでいた。曇りの日の日光は晴れの日よりも尊いように思える。「天使のはしご」とよぶのだと、いつか遠い原っぱで教えてもらったことがある。厚い雲から伸びる光の線は気高く意味ありげにみえた。その一方で暗い雲は意地悪で今日を憎んでいるようだった。

 こんな日ははじめてではなく、いつかもこんな天気だった。思い出す。これはテレビの映画の話だが、女の人がいて、かの女は幼いころ親にいじめられていた。悲しんだり自分を傷つけたりするうちにどうにか大人になった。両親はとっくに病気で死んでいて、女は過去に悩まされた。ある日、夢を自由にできる能力が身につき、夢ではあるが自分の過去に介入することができた。夢の中ではすべてが可能で、それでかの女はかつての恨みをはらしてしまった。目が覚めるとそこには男性がいて、すると女性はかわいい女になってハッピーエンドなのだった。そういったのを見て、どうかしたら私もなにかを変えられるのではないかという気がした。

 

 雨が降りだしそうに向こう側は黒い雲が広がっていた。天使の分の隙間もない。風はぬるんで重かった。冷え性の足先がいつもと違う冷たさだった。じっとりと足元から雨がやってくる。

 線路をまたぐ階段の上で、強い風がふいた。きっぱりとした冷たい風だ。雨になるとわかった。隣を歩いていた女が「気持ちいい風」と大きな声で言った。

 

 建物の中はじっとりとしていた。降りはじめの間一髪で滑り込むことができた。エアコンがごうんごうんと音を響かせて、暖房だか冷房だかわからなくなった。そっけないカーペットの敷かれた部屋で待つ。人気はなかったが、時間が近づくにつれ人は増えた。扉がひらくたびに、重い空気がやってきて外の様子を感じさせた。雨の匂いだった。誰の付き添いか、近くに小さな子がやってきて、子ども特有の、としか形容できない、匂いがした。甘い。しかし突き詰めていくと不純物のまざったような。汗の匂いだと結論するけれど、正しいのかは知らない。とにかくつよく香り、顔をそむけてしまう。

 

 少し待つとようやく妹が出てきた。かの女は少し変わった塾に行っていて、働いている両親の代わりに時たま迎えを頼まれるのだった。個別指導の女教師は「今日もよくできてましたよ」と言って、ついたての向こうにひっこんだ。妹が用を足すのを待って、私たちは塾を出た。手をつなぐ。妹がそうしたがるのだ。

 雨は弱くなっていて、傘を出すか出さないかギリギリのラインだった。いつでも開けるように片手に持つ。手がべたべたして気持ち悪いので、手袋をさせる。空気は冷え込んでいたので、手は暖かくなった。しかし中は少し蒸れていたかも知れない。

 

 そこから家までは30分ほど歩かねばならないのだが、途中で雨足が強くなり、雨宿りをする。ざあざあと。雨は見えないのに、通り過ぎる車のライトに反射するときだけはあかく姿をみせた。規則正しくまっすぐに降り落ちていく。曖昧な天気予報とやわらかい日光のせいで防雨の準備を怠った私たちには折り畳み傘が一本きりしかなかった。ふたりで小さな傘に入り、手をつないでいるので、ふたりとも片側が濡れていた。コートの袖をタオルでぬぐってやりながら、なんともいえない気持ちになった。妹は何も言わず、前を見ていた。

 雨が弱まった隙を見つけて、また歩き出す。ひょこひょこと妙な行軍だ。家まであと少しというところ。少し大きな道の、神社が見えるところで妹は立ち止った。「どうしたの」ときく。何も言わない。雨が傘に当たる音だけがぽつぽつとうるさい。遠くでは車が水をはじいている。誰もがどこかに帰る。暗く厚い雲が低く低くやってきて、世界を分断している。すべてが遠い。車も。人々も。私たちはふたりぼっちだった。なんでこんなことにと思う。物言わぬ少女を連れてこんなところで立ちすくんでいる。優しいような厳しいような気持ちが交互におとずれて、心の中でとけて混ざりあった。苦しい、しかし涙が出そうなほどにいとおしかった。大きな気持ちが立ちふさがって、どこにも行けなかった。なにか言おうと思った。私は何も見ていない自分に気がついた。声がした。それは隣の小さな人で、あっという間にさらにみるみる小さくなって縮んでしまって、それでも小さな声でお姉ちゃん、と言った。

 雨の粒が妹から滑り落ちた。春が来るのだ。