ビグルモワ

すべて物語にしてしまいたい

3月の短歌––春となり、人となり

soulkitchen.hatenablog.com

 

ヤッホー短歌! 三月はどうにか投稿できてよかったことです。月の終わりに短歌の目に参加できてると達成感がすごい。短歌活動ぜんぜんしてないし、ぺらっぺらの素人なのだけど、月の数日でも集中したらなにがしかできてうれしいのでした。そんな感じの振り返り。

 

題詠 5首

 

1. 草

 じいさんは山へ芝刈りそれは草ばあさん川でトロピカルジュース

 

★桃太郎のパロディってまあまあネット上にあふれているのだけど、「芝刈り」って見たとたんにピピー!(笛) ちがいまぁーす! 柴刈りでぇーす!!! 芝とは草でーす! 庭かー!!! みたいに思ってしまう(性格悪)。芝刈り警察。のだけど、そんな新説・桃太郎だったら、おばあさんは川でバカンスとかしててほしい。桃太郎における芝刈りはこれからも言葉狩りしていきたい(性格悪)。

 

2. あま

 あまなつのピールつくりて残りたるはげ山の一夜仏壇に供ゆ

 

★柑橘の皮を食べようと思った人すごい。ので、その遺志を継ぎたるものになったときに、主役がむしろ皮なので、無残な姿になった本体がいつまでも冷蔵庫に入っていたのでした。供ゆ場所、神棚か仏壇か迷ったんだけど、仏壇の方がおもしろいかなと。今思ったんですが、もっととんでもないところにした方がよかったかも。

 

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はげ山の一夜

 

3. ぼたん

 めざめごと秘密のぼたん押さるやう春あらわれて人になりけり

 

★だんだん春になっていくなぁというきもち。わたしもだんだん人になっていく。

 

4. 鳥

 雷鳥の換羽集めてオセロたりお菓子の家まで落としてゆきます

 

★逃げたんです、ライチョウ、と長野県の人に教えられ、でもほかではニュースになっていない(四月現在まだ見つかっていないらしい)。というのを思っていて、それから今回のお題に雷と鳥が入っていて、雷鳥で二首とか思ったのだけど無理だった。ライチョウ、どこに行っちゃったんだろう。さすがの保護色使い分けでわかんなくなっちゃったかな。そう、いちおう言っておくと冬は真っ白で夏は茶色と見事に姿が変わるの、ライチョウ

 

mainichi.jp

 

5. 雷

  宝くじ当たった人のための本「急な落雷気をつけられたし」

 

★「短歌ノート」をつくってみて、好きな短歌とか思いついた切れ端とか書き留めてるんだけど、どうしてもできなくてそこから引っ張ってきた、「宝くじ当たった人のための本」。わりとパワーワード。だから歌自体はやっつけでスミマセンという感じ。またお世話になるかもしれない上の句。

 

テーマ詠

テーマ「捨」

 

「新しい顔よ!」のあとさき 元顔に事業所ごみのシール貼るバイト

 

★いくつか考えながら、ジャムおじさんパン工場の裏には廃棄されたパンの山があったりするんだろうかと思いながら、、自分が思い浮かべた情景のために31文字をつかってしまうのたぶんあんまりよくないんだろうなと思いながら。そういえばmoonというゲームに出てくるパン人間の話、かなしかったなぁとか思い出す。

 

 

ただただ自分の話をするけれど、2月は参加できなくて、すると前回は1月で、でもそれはそれでぼわっと霧の中のような小麦粉に水を混ぜただけのもののようなかたちのないねっとりとした感触だったのが、今回は霧も晴れてて元気になったんだねと自分にいいたい感じがある。動詞が多いからかなぁ。なんていうか短歌でも文章でもけっきょく心理状態をはかるものに思ってしまうのね。

文語でキメたいお年頃であり、そのへんも取っ組み合ってみました。だぶんブームなんだけど、そこに入ってしまうと口語ではむず痒い。しかし文法は間違いたくないのでがんばってしらべて。でも本当は「押さるる」だよなーとか思ったり甘えてしまった部分もちらほら(わざとだぜアピール)。文語だと活用や助動詞が厳密になる分、読み方もある程度は指定できてそこの機微を読み取ってくれ勢には便利なのかもとか思ったり。

雷鳥の歌(雷鳥の換羽集めてオセロたりお菓子の家まで落としてゆきます)は口語と文語が混ざってしまってるけど、「落としてゆく」のはだれなんだろう、とか(ふふ)。これ「オセロたり」はもともと「森の奥」だったのを過剰だなぁと思って変えていて、推敲のときに文法とあと詰め込みがちな部分を引いたりすることが多くて(追加することほとんどないね)、ジェンガみたいだなと今思ったことです。そーんな感じで。それではね。チャオチャオ!!

 

例の本を読んだ

 

これね。

 

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

 

 

入手直後くらいに読んであったのだけど、なかなか記事にできず。感想はほとんど変わっていないのですが、うーん、面白いしいい話なんだけど、そんなに皆皆様が絶賛するほどなのかよくわからないというのが正直なところで、わたしの読解力とか共感力が低いのだろうかとか思ってしまうほどで、それで少し冷めてしまってる。

この感想の記事もいくつか読んで、それで前述の疎外感があるのだけれど、でもそのエントリのいくつかは感動しましたの熱と自分の経験と重ねての見識がはっきりとあざやかに描写されていて、(わたしにとって)この本はぼんやりとしているのと反対に、その人たちの輪郭がはっきりし、色が濃くなったような不思議な感じがあった。

文章は綺麗で、自然の描写なんかが、たぶんわたしが田舎育ちだからというのもあるんだろうけど、何もなく、辛うじてある樹々やなんかもその枝葉の隙間なんかからさらに何もなさを増幅させる寂しい感じがとてもよかった。あとなんだかインターネット発だなぁという感じがする部分もあった。

そもそも筆者のブログを読んでいて、twitter等も拝見しているので、その奇矯な夫がはじめからおかしかったわけではなく、まじめな好青年だということが知れて納得したりした。そのおかしなところに惹かれたのかなと思っていたのは違っていた。というように、事実においては筆者のブログやtwitterの副教材のようなあつかいにわたしの中ではなってしまった。

 

読みながら、なんで「自伝的小説」、つまり(いちおうは)ノンフィクションと銘打っちゃったんだろうと思って、わたしはこれは「フィクション」でいいと思ったのだ。タイトルにもなっているように、夫とは性交渉が持てない(それは恋人時代からずっとだ)。そして読み進めると、夫以外とはできたし、夫もまた他でできているようだということがわかる。その理由はわからない、とにかくできない(入らない)のだ。不思議だ。でも多分そこに意味をもたせて読み解いて(読み解かせて)ほしかったのだ。

また、これを読んで「まさかそんなことがあるなんて」と思う人もいるだろうし、それと同じように「わかる」という人もいるんだろうなと思った。わたしはどちらかといえば後者で「入らない」関係もいいのではないか、むしろその方がいいとか思ってしまう(たぶんこれは個人の体験に深く左右されるのだろうけど)。しかし、作中のふたりは「入りたい」のだ(タイトルを尊重して「入れたい」とは書かない)。「入りたいのに入らない」と「入らなくていいなぁ」は全然違うものだから自分の率直な感想をぶつけるのは躊躇われた。

それと同時にたぶんこういう人たちはほかにもいるんだろうなと想像した。つまり、「入りたいのに入らない」人、または「入らなくていい」人が。と思っていたらやはりそうだったらしく、そんな感想が筆者のtwitter等でRTされてきたりする。そんな今まで気づかれなかった派閥があるならば、恋愛関係夫婦関係に「入る/入らない」という枠組みが追加されるきっかけになるのかもしれないなぁ。

「入らない」けど恋人です夫婦です問題ありません的な関係、わたしはアリだと思っている。究極、友人どうしで結婚したっていいと思ったりもする。「好き」にも色々あるというとありきたりな感じだけど、LGBTにかぎらず、異性愛だってひとつじゃないって、定義がゆるく自由になったら楽だなぁと思う。そういう意味で意義深い点はあるのかも。

 

という感じでこのエントリ内で時間の経過があって、いちおうの結論をつけられた感じにはなりましたが、発売直後は勝手にもやもやしていた感じです。とはいえ重版かかったり社会現象、なのかなー。そういう予感がなかったらこの結論にはできなかったろうしうーん。そうそう、このエントリ、わたしの輪郭は少しははっきりしたでしょうか。

1月の短歌––迷いがみえるみえている

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題詠 5首

 

1. 編

 愛す子も愛さない子も等しくはだれぞ遺伝子編まれた先の

 

★編み物するようになってから、人の着てるニットとかめっちゃ気になってよく見ちゃうんですが(糸とか編み方とか色とか)、そして文章の一文字一文字をつないでいく感じは編んでいくのととても似ていて、あるときふっと、この目の前の人もいろんな人の関係(DNA)の編まれた先なんだなぁと思って。中島みゆきの「糸」、編みながらうたっちゃうんですけど、まさにだなーと思ってやべーやべーつって(語彙力がゼロに近づいて)。

 

2. かがみ(鏡、鑑も可)

  かの人ののち水滴のしぶきたる鏡の向こうの顔に色ぬる

 

★なんでこんなに鏡が濡れているんだろうと思いながら化粧をするのは忙しい朝。

 

3. もち

 おもちさえあればなんにもいらないの 夏はおそばがあればなんにも 

 

★おもちっておいしいよねという気持ちしかわいてこなかったのでした……。極端な思考をする癖があって、これさえあればなんにもいらないっていうのが百個くらいある気がする。なんなの。

 

4. 立

 おひとりで立ってるあなたは美しく、けれどみなにもさあれと云えず 

 

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★この写真めっちゃよくないですか?!?!?!?! やべーつって(語彙力が)。

 

5. 草

 干し草は枯れた草とは違うもの? 牛のおちちをのんでる人間わたし

 

★そういえば2017年は食べ物を干してみたいんですけど、干すと栄養価が上がるってどういう仕組みなんだろう。ひじきを乾燥させて流通した先で結局もどして食べてるの意味わからんっていつも思ってる。過去からのメッセージ感。うーん、保存食。田舎育ちなので、実家の近くにはたまに牛舎があって、なんとも言えない匂いがして、近くをとおるときは息をとめて早歩きして、でもたまに風向きで牛の匂いがしてきて、近くに立ってたあの謎の背の高い建造物はサイロなのかなとか今になって思う。あの牛たちと、けっきょく牛乳を買ってきて飲んでるわたしの距離ってめっちゃあるよね。

 

テーマ詠

 テーマ「初」

 

 なんもかもきみにとられてしまっててこの先どうして歩いてゆける

 

★「初めて」が終わってしまったら、もうなんもかもわからなくなって、とらわれてしまう。良くも悪くも初めてはトクベツ。

 

 なんもかも夢に出てきたくりかえしすべてがはじめてすべてがおわり

 

★これはわたしの思考の癖なんだけど、考えをつきつめた結果、「初」とは全部がはじめて!! ということになってしまって、じゃあ「全部」の歌を詠むの?!?!?! ってなってしまった。それはともかく、既視感がめちゃくちゃあって、初めてのことでも、「あ、これどこかであったな」って思ってしまうことも多くて、するとやっぱり初めてってなんだろう。夢の体験は数えていいのかな。

 

 赤いものあげたかわりに色うせてずんぐり十字架世界を嗤う

 

★16歳になったとき、「献血ができる!」って意気込んで献血したんだけど、けっきょく貧血で倒れてそれからもう献血はしていない。

 

短歌をつくるたび、それと一応こうして自分で解説してるとき、わたしは結局文章の人なんではないかと思ってしまう。がやがやうるさい。

この月の短歌はぼやっとしてしまったと思うんだけど、それはわたしの話であって、受け取る人には関係がない。ぼやっとしてると受け取ってもらえるかもしれないけど、その人の中ではそれで終わりだろうし、それでも(ぼやっとしながらも)鮮烈に覚えてもらえるとしたら、受け取った人のなにかに結び付いたんだろうなぁと思う。受け取った人のなにか、わたしにはわからないからそれは非対称のようで対称な気もする。

それは文章も同じなんだけど、短歌は31文字という決まりがあるから、必然言葉を削ったり状況を整理したり修辞法を駆使してみたり、場合によってはわかりやすいような比喩でもって全然違うことにしてみたり。そう考えると、素直なストレートな短歌がある一方で、(もしくはストレートでありながら)ひねくれた短歌もあるんだろうと想像する。それはともかくこちら側のなんやかやを31文字に詰め込んで、あちら側ではそれを解凍する。zipファイルみたいな面もある。こちら側とあちら側でまったく同じ姿になることを想定してしまうけど、たぶんそれは本当に本当にまれだし、いやむしろあちら側では変な姿になっていてくれという気もする(これはわたしがひねくれているから?)。

わたしが今回反省するぞと思うのは、むこう側で解凍されたときにぐずぐずでむにゃむにゃなんじゃないかなということ、もしくはやっぱりあまりにもそのままなんじゃないかなということ、な気がする。zipのたとえでいくなら、圧縮方法があんまり気にいっていない。圧縮するまでにもなっていない。と個人的には思う。ちゃんと時間がとれていないということもあるんだろうけど、それにしても。自分で詠んで自分で読むのだったら笑い話で済むかもしれないけど。でもこの不満足はわたし自身の現況の不満足からきてるものもあるのかもしれない。今回のお題で半年後につくってみたらまた違うものができるような気がする。それはわたしの生活に根差しているという意味で。何度つくっても同じ歌ができるのがいいという意味ではないのだけど。というような、短歌をつくってみるわたしと生活体としてのわたしの齟齬があって(いやむしろ状況的にないのか?)、もにゃもにゃしたままつくったので感想がもにゃもにゃしているということなのかもしれない。

テーマ詠が「初」なの、広すぎて広すぎて迷子になってしまって困った。焦点さだめきれない癖がやっぱりあって、広くとってしまいそうになる。具体的な「初」とはなにか。なにか。なにか……。次回(今月)は「夢」なので、これも広くない……? 簡単なことを難しく考えすぎなのかもしれない。少し前の休みの日にテレビをみていたら、NHKで短歌大会みたいなのをやっていて、一年かけて短歌を募集して表彰してでは次のお題はこれですみたいな流れで、その今年のお題は「山」で、山のことを詠んでもいいし、ぴんと来ない人は身近にいる山田さんのことでも山本さんのことでもいいですとアナウンスされていて、ウッ卑近! とか思ってしまい、それは反則なのではと思ってしまったりする自分がまさに矮小、NHKがいいっていってるんだからよくて、卑近なことをガンガン詠んでいきたいような気もする。めちゃめちゃな圧縮から気に入るものができるのかもしれない。というような思考。しかしこんなことうだうだ書いていて、わたしってやっぱり「文章の人」じゃない?